1. はじめに:私が自分の物語を紹介する理由

こんにちは、高野那々です。私の人生の物語を皆さんに聞いていただきたいと思います。

私の人生は、まるでジェットコースターのようでした。高いところから低いところまで、激しく上下する人生だったんです。でも今は、幸せな家庭を築き、愛する人たちに囲まれて暮らしています。

なぜ、こんな私の話をするのでしょうか?それは、「こんな私でも幸せになれた」ということを、悩んでいる人に知ってほしいからです。

私は、本当に壮絶な経験をしてきました。親からのDV、14歳での家出、16歳での出産、薬物依存症、アルコール依存症、過食症、拒食症、自殺未遂、恋人からのDV…。本当に底なし沼を這いずり回るような日々を過ごしてきたんです。

でも、今はカウンセラーとして、多くの女性の相談に乗っています。そして、「自分自身が変われば、相手も変わり、見える世界も変わってくる」ということを、自分の経験から伝えています。

この話を読んで、「えー、そんなひどい経験をした人が幸せになれるの?」と思う人もいるかもしれません。でも、大丈夫です。誰にでも幸せになるチャンスはあります。

また、「私もまだ希望があるかも」と思ってくれたら嬉しいです。そして、あなたの中にある強さに気づいてほしいんです。

これから私の波乱万丈な人生を聞いてください。そして、幸せへの道は、思いもよらないところにあるかもしれないということを、感じてもらえたらと思います。

私の最終学歴は中学校中退で、小卒です。でも、そんな私でも幸せをつかむことができました。あなたにだって、必ず幸せが訪れます。それを信じて、私の物語を聞いてください。

2. 複雑な家庭環境での幼少期

両親の出会いと私の誕生

私の人生は、1982年11月、横浜市中区の中華街の近くにある病院で始まりました。父は24歳、母は22歳。二人とも若くて、お金もあまりありませんでした。

両親の出会いは、なんと水商売の世界でした。母はホステス、父はホストとして働いていたんです。父は水商売に慣れていない母に新鮮さを感じて、すぐに心を奪われたそうです。そして、付き合ってすぐに私を授かり、結婚することになりました。

不安定な家庭環境と孤独感

家庭の雰囲気は、とても不安定でした。父は仕事柄、お酒を飲むことが多く、毎日のように朝帰りしていました。酔っ払って帰ってくると母に絡み、二人はよく言い合いをしていました。

私が小さい頃から覚えているのは、父が母を投げ飛ばしている光景です。本気の喧嘩で、私は黙ってそれを見ているしかありませんでした。でも、仲が良いときもあって、二人で料理を作ってお酒を飲んだりしている姿も見ていました。

私は一人っ子で、自分の世界に入り込んでよく独り言を言っていました。友達と大勢で遊ぶよりも、お人形ごっこをしたり、空想をしたり、木登りをして本を読んだりして一人で遊ぶことが好きでした。

人と違ったことをやって目立つのが大好きな子供でした。例えば、サンタクロースは実は両親だということをクラスメイトに言いふらしたり、園長先生に向かって「もうこんな幼稚園は嫌だ!帰りたい!」と言ったりしました。

常に注目されていたかったんです。母が電話中のとき、わざと冷蔵庫の牛乳を壁にぶちまけたこともありました。怒られてもいいから、注目されたかったんです。

小学校に上がる年に横浜から藤沢に引っ越しました。集中力がなく、よそ見をしたり、歩き回ったりして、先生からよく叱られました。同じクラスの男の子たちとも仲が悪く、いじめられることもありました。

一方で、気に入らない女の子がいると、その子を無視したり、いじめたりもしていました。ランドセルでその子の顔を殴ったり、髪の毛を引っ張ったりしたこともあります。今思えば、とてもひどい行動でした。

この頃、母が不倫をするようになり、両親の関係はさらに悪化していきました。母とお風呂に入っているときに、「どうしたらお父さんを殺せると思う?」とよく相談されました。

そして、私が小学校5年生のとき、両親は離婚しました。この複雑な家庭環境と早くから感じた孤独感は、私の中に大きな空虚感を生み出し、それが後の人生における様々な問題行動につながっていったのかもしれません。

3. 荒れた10代:転落の始まり

両親の離婚と家出

両親が離婚し、母は出ていき、父と生活するようになってから、私の人生は急激に変わり始めました。中学生になると、学校でお酒を飲んだり、夜遊びをしたりして、あまり家に帰らなくなりました

父との関係も悪化していきました。父は私によく暴力を振るうようになり、とても怖い存在になりました。お酒が入ると手がつけられず、カッターで頬を切られたり(今でも跡が残っています)、ゴルフクラブで殴られたりしました。

どんどん父のことが嫌いになり、「私は愛されていない、必要とされていない、だから私の居場所はここにはないんだ」と思うようになりました。そんな寂しい気持ちを埋めるように、万引きを始めました。何度も捕まりましたが、お構いなしで、何度も何度も繰り返しました。

そして、父からのDVにもう耐えられないと思い、14歳のある日、私は家出をしました。その日は台風が来ていて、激しい雨が降っていました。でも、私の心の中の嵐はそれ以上に激しかったんです。

14歳での同棲と15歳での流産

家出をして、行き場のない私は、知り合いの紹介で、見ず知らずの18歳の男性の家に転がり込むことになりました。彼は東京の立川で一人暮らしをしていて、私はそこに身を寄せることにしたのです。

この決断は、完全な現実逃避でした。毎日、学校にも行かず、好き勝手に暮らしました。お腹が空いたら好きなものを食べ、夜更かしし、ゲームをして遊び、お酒を飲み、街をうろつく日々。

そんな生活の中で、 ある日、激しい腹痛と出血に襲われました。気づかないうちに流産していたのです。私には妊娠や避妊の知識が全くありませんでした。家出をしていたので、保険証を持っておらず、病院にも行けず、とても怖い思いをしました。

16歳での出産と育児の苦悩

その後、再び妊娠しました。今度も気づきませんでした。お腹が出てきても、太っただけだと思い込んでいたんです。ある日、歩いていると近所の人が私の体を見て、「妊娠してるんじゃない?大丈夫なの?」と声をかけてくれました。

その言葉をきっかけに内科に行ってみると(産婦人科の存在を知らなかったのです)、「妊娠していると思うので産婦人科に行きなさい」と言われ、産婦人科に行ったところ、なんと妊娠7ヶ月まで進んでいて、中絶もできない状態でした。産婦人科の先生には「どうするのよ、あなた!どういうことか、わかってるの?」と言われ、途方に暮れた私は、出産費用をどうするか悩み、同棲相手の母親に相談しに行きました

しかし、その方の反応は冷たいものでした。「私にはどうすることもできない。少しの間ならこの家に置いておけるけど、後は知らない。自分たちでどうにかしなさい!」と突き放されてしまいました。

絶望的な気持ちになりましたが、なんとか知り合いをたどって、私の母の所在を突き止めました。母は私の知らない男性と小田原で同棲していました。事情を話すと、母はさほど驚いた様子もなく、「あんたが生きてると思わなかったわ。あんたならそうなると思ったわ。そうなんだ。じゃあ家に来る?」と言われました。

お金も何とかしてくれるということだったので、私はすぐに小田原に行きました。もし母の所在がわからなかったら、私は未成年の身寄りのない子供が集まる施設で出産をしなければなりませんでした。救われた気持ちでした。

でも、私が小田原に行ってからというもの、父親となるはずのその同棲相手とは一切連絡がつかなくなり、完全に音信不通となってしまいました。私は捨てられた、裏切られたと思いました。やっぱり私は誰からも必要とされないんだ、利用されたんだ、そんな気持ちでいっぱいでした。

16歳で子供を産んだ私。でも、生まれてきた子供を全く可愛いと思えませんでした。重かったお腹が軽くなっただけが嬉しかったんです。育児は想像以上に大変で、毎日が地獄のようでした。

「早くいなくなってほしい」「どうして私だけがこんな思いをしなければならないの?」そんな思いが頭をグルグル巡りました。育児ノイローゼになり、自殺未遂を繰り返すようになりました。

この時期の私は、まだ子供でした。でも、大人の責任を背負わされました。その重圧は、想像以上に大きかったのです。10代の私は、大人になるには早すぎる経験をたくさんしました。そして、これが私の人生の暗黒期の始まりとなったのです。

4.底なし沼の10代後半から20代

薬物依存症との闘い

10代後半から20代の私の人生は、まるで底なし沼に落ちていくようでした。気を紛らわすためとお金を稼ぐために、水商売の世界に入りました。しかし、そこでの生活は決して楽なものではありませんでした。

ある日、お客さんの紹介で地元のヤクザと知り合いになり、彼らの仕事を手伝うようになりました。風俗店の電話番をしたり、女の子の勤怠調整をしたりする中で、何か手っ取り早くテンションが上がるようなことがしたくて、薬に手を出すようになりました

水商売で稼いだお金を全部薬物につぎ込むようになり、体重が38キロまで落ち、動く気力もなくなりました。仕事に行くためには薬を使わないといけない、そんな悪循環に陥っていきました。

幻覚を見たり、本気でスパイに追われているんじゃないかという妄想に苦しんだりしました。そんな中、ある日の幻覚で息子が「ママやめて!お願いだからやめて!」と叫んでいるのを見て、泣きながら残りの薬を全部トイレに流しました。

薬を止めた後の禁断症状は想像以上に辛いものでした。薬をやりたいという気持ちよりも肉体的な痛みの方が強く、全身がバラバラになるような感覚に襲われました。「死ぬしかない!死ぬしかない!」と毎日つぶやいていました。

過食症とアルコール依存症

薬をやめてしばらく経った頃、今度は過食症になってしまいました。仕事が終わった後にコンビニで大量の食べ物とお酒を買い込み、一人で食べ続けるのです。でも、太るのが嫌で食べては吐くことを繰り返していました。

ギャルファッションが流行っていた18歳ぐらいのとき、渋谷や六本木に入り浸り、そこで知り合った友達と毎日夜遊びをするようになりました。渋谷の109前でそのまま寝たり、センター街で当時ギャルの間で流行っていた、頭にハイビスカスをつけている子を見つけては飛び乗ってそれを奪ったり、ルーズソックスを無理やり脱がせて奪ったりしました。

その後、ある会社の社長さんと付き合うことになり、毎日その人の自宅で朝からウイスキーやブランデーなど高価なお酒を飲んで酔いつぶれる生活を送っていました。社長さんの父親は代議士だったので、私は社長さんと付き合っていることを内緒にされていました。自由に出かけることは許されず、軟禁状態でその人の家に入り浸っていました。

アルコールを飲んで酔いつぶれると食事を取らなくなるので痩せる、そんなことにも気づいてしまいました。

繰り返された自殺未遂

この時期、私は何度も自殺未遂を繰り返していました。自宅で首を吊って死のうとしたり、カッターで手首を切ったり、幹線道路を走っている車に突然飛び出したり、大量の下剤を飲んだりしました。

DV男との壮絶な経験

その後、水商売関係の仕事をしている男性と付き合うようになりました。彼は束縛が激しく、私がお客さんと出かけたり連絡を取ったりしていることが分かると烈火のごとく怒り、私が「やめて」と言うまで殴り続けました。鼓膜が破れかかったこともあります

別れたいと何度も思いましたが、別れたら何をされるか分からないので、それが怖くてずるずると付き合い続けていました。お金の無心をされたり、返してと言うと「お前ってケチなやつだよな」と激しく罵られ殴られたりしました。

あるとき、一緒に車に乗っていて口論になり、高速道路を走っている車から突き落とされました。一瞬何が起こったのか分かりませんでしたが、痛いとかよりも先に、「絶対にこいつを殺してやる!」という思いが先に立ちました。少し先で止まった彼の車まで走って向かい、履いていたピンヒールのかかとで思い切り目の上を叩きました。もう少し打ち所が悪ければ失明していたかもしれません。

そんな彼が実は浮気をしているということがわかり、なんと他の女と同棲までしていたのです。私は彼とその女が住んでいるマンションを突き止め、マンションの敷地内で彼に電話をかけ、「お前と女が住んでいるマンションに来てやったんだよ」と言いました。慌てておりてきた彼と、マンションの前で思いっきり揉み合いになりました。

その様子を見た近所の人が警察に通報してしまいました。なんとか逃げたので追及されることはありませんでしたが、それからその男とはフェードアウトしていきました。

この時期の私は、完全に自分を見失っていました。生きる意味も、幸せになれる希望も見出せず、ただ闇の中をさまよっているような状態でした。しかし、この底なし沼のような経験が、後に多くの苦しんでいる人々の気持ちを理解し、寄り添える力になったのです。

5.新しい人生への一歩

昼の世界への転身

「このままではダメだ!普通の昼間の仕事をしたい!」と強く思うようになりました。それまでの夜の世界から抜け出し、新しい人生を歩み始めたいという思いが日に日に強くなっていったのです。

ただ、中学校中退の私が選べる職種は限られていました。最初についた昼の仕事は、知り合いからの紹介で雀荘でした。

その後、派遣会社からさまざまな仕事を紹介してもらいました。

  • ジーンズメーカーの工場での出荷時のチェック
  • アパレルショップの店員
  • イベントコンパニオン

これらの仕事は、夜の世界とは全く違う経験でした。初めは戸惑うこともありましたが、一つ一つの仕事を通じて、少しずつ自信をつけていきました

キャリアの変遷

テレビドラマや女性向け雑誌の影響で、「ebian+日経新聞+パソコン=できる女、かっこいい女」像が私の中で芽生えました。そこで、大胆にもOL系の人材派遣会社に学歴を詐称して登録しました(ごめんなさい!)。

そして、ある一部上場企業の面接を受けることになりました。面接官に「エクセルやワード、パワーポイントはできますか?」と聞かれ、何も知らないのに「はい!できます!」と答えました。

驚くべきことに、私は採用されました。パソコンの電源の入れ方さえ知らないまま、新橋のオフィスに通うことになったのです。

カバンにはebianと日経新聞を忍ばせ、自分なりの”できる女像”を演じながら毎日通勤しました。この経験は、私に新しい世界への扉を開いてくれました

落ち着いた大人の関係の恋人

新橋・銀座OLの仕事に慣れてきたある日、同僚から合コンに誘われました。そこで出会ったのが、外資系に勤めるサラリーマンでした。

何度かデートを重ね、付き合うことになりました。外資系、高年収、アウディ、高級マンション、センスもよく、スタイリッシュで、みんなから羨ましがられるような人でした。一見、理想的な関係に思えました。

ですが、付き合って半年目から全く体の関係がなくなり、スキンシップさえも徐々に減っていきました。しまいにはただ一緒に過ごすだけになりました。これが落ち着いた大人の関係なのかな、と私は思うようにしました。

今まで付き合ってきた男性があまりにも激しく、暴力的だったためか、天と地の差で物足りなさというか空虚感みたいなものを感じてしまったのかもしれません。

ある日、そんな彼の財布の中に風俗店のカードを発見してしまいました。風俗には行くくせに、私とは全く体の関係はないってどういうこと?と激しく憤り、心の中は満たされない気持ちでいっぱいになりました。やっぱり私は愛されない、大切にされないという思いがますます助長されました。

その頃、彼にアメリカ転勤の話が浮上し、一緒にLAに行かないかと誘われましたが、それを最後にお別れしました。

さらなるキャリアの変遷

その後、私はIT系の営業会社に転職することができました(ここでも学歴詐称をしました。ごめんなさい!)。負けん気の強い私は、その会社の会長や社長などが書いた書籍をすべて読み漁り、面接に挑んだのでした。

営業職として全力で飛び込み営業をしまくり、少しずつ結果を出していきました。この経験は、私に自信と達成感をもたらしてくれました。

この新しい人生への一歩は、決して平坦な道のりではありませんでした。嘘をついてスタートしたキャリアに後ろめたさを感じることもありましたし、新しい環境に適応するのに苦労することもありました。

しかし、この経験を通じて、私は自分の可能性に気づくことができました。そして、正直に生きることの大切さも学びました。

この時期の経験は、後に私がカウンセラーとして活動する際の重要な糧となりました。人は変われる、そして努力次第でどんな世界にも飛び込めるという確信を、身をもって学んだのです。

6.最愛の人との出会い

全てを受け入れてくれた人

私の人生に大きな転機をもたらしたのは、その営業会社での直属の上司との出会いでした。この人は、それまで出会ってきた人とは全く違っていました。

この上司は、自分の世界を持っている、自分軸があって、客先からも信頼されて、周りからも一目置かれている人でした。最初は男性としてというより、憧れの存在でした。

それまでの私の人間関係、恋愛は、私の見た目や表面的なもので寄ってきたりする人ばかりでした。でも、この上司は違いました。私の本質を見抜こうとしてくれたのです。(恋愛対象としては、私にまったく興味がなかったみたいなんです)

むしろ、私に対して厳しく接してくれました。「高野のそういうところがよくない」とはっきり指摘してくれたのです。これは、私にとって新鮮な経験でした。

その後、時が経ち、その上司と惹かれ合い、お付き合いが始まって半年後、私は大きな決断をしました。これまで誰にも言えなかった秘密を打ち明けることにしたのです。

  • 子供がいること
  • その子供に障害があること
  • 薬物依存症の過去があること

全てを話し終えたとき、私の心臓は高鳴っていました。これで全てが終わる、と覚悟していたのです。

しかし、彼の反応は予想外でした。「神妙な面持ちで話があるって何かと思ったらそんなこと〜?人生、誰でもいろいろあるわ〜」と、笑いながら私を抱きしめてくれたのです。

その瞬間、私は駅のホームで号泣してしまいました。やっと、私の全てを受け入れてくれる人が現れたんだ!という喜びで胸がいっぱいになりました。

この時の彼が、今の夫です。

真の幸せを知る

この出来事を通じて、私は真の幸せとは何かを知りました。それは、自分のありのままを受け入れてもらえること、そして自分自身を受け入れられることだったのです。

彼との関係は、私に新しい気づきをもたらしました:

  1. 自分を偽る必要がない:これまで私は、常に誰かに好かれようと、自分を偽っていました。でも、彼との関係では、ありのままの自分でいられました。
  2. 過去は変えられないが、未来は変えられる:彼は私の過去を否定せず、むしろそれを受け入れ、これからの人生に目を向けるよう励ましてくれました。
  3. 愛とは相手を理解し、支えること:彼は私の良いところも悪いところも含めて理解しようとしてくれました。これが本当の愛なんだと感じました。
  4. 自己成長の大切さ:彼との関係を通じて、私は常に自分を向上させようという意欲を持つようになりました。

彼との出会いは、私の人生観を大きく変えました。「幸せ」は外にあるのではなく、自分の中にあるのだと気づいたのです。

そして、この経験が私に新たな使命を与えてくれました。自分が経験した「真の幸せ」を、悩める女性たちにも伝えたい。そんな思いが、日に日に強くなっていったのです。

この出会いと経験が、後の私のカウンセラーとしての活動の根幹となりました。「自分自身が変われば、相手も変わり、見える世界も変わってくる」という私の信念は、まさにこの経験から生まれたものなのです。

7.人生の転機:「運命を拓く」との出会い

私の人生が大きく変わるきっかけは、思いもよらないところにありました。それは、一冊の本との出会いでした。

自己変革の始まり

ある日、中村天風著「運命を拓く」という本を、彼が「俺には難し過ぎる内容だったから、読んでみる?ビジネス界隈では有名な本らしいよ」と、本を読むのが大好きな私を知っていたので、貸してくれました。デートの帰りの電車の中でこの本を読んで、電車の中にも関わらず、涙がボロボロと出てきてしまいました。私は雷に打たれたような衝撃を受けました

この本を通じて、私は重大な気づきを得たのです。自分の全ての負の連鎖の原因は、【過去の思考習慣を引きずってる私】なんだということに気がついたのです。

それまでの私は、常に自分は不幸だ、誰からも愛されていない、という考えに囚われていました。でも、この本は、そんな考え方自体が私を不幸にしているんだと教えてくれたのです。

自分自身の思考の修正をすることで、人生は変えられる。この考えは、私にとって目から鱗が落ちるような経験でした。

それまでの私は、常に誰かのせいにしていました。親のせい、環境のせい、社会のせい…。でも、実は全ては自分の心の中にあったんです。

この気づきは、私の人生を180度変えるきっかけとなりました。自分の人生は自分で変えられる。この強い思いが、私の中に芽生え始めたのです。

心理学との出会いと学び

「運命を拓く」との出会いをきっかけに、私は心理学に強い興味を持つようになりました。自分の心の仕組みを理解したい、もっと自分を変えたいという思いが、日に日に強くなっていきました。

そこで、私は様々な心理学のスクールに通いまくるようになりました。昼間は仕事、夜はスクールという生活が始まりました。

心理学を学ぶにつれ、私は自分の過去の行動や考え方を客観的に見られるようになっていきました。なぜ自分がそういう行動をとったのか、どうすれば変われるのか、少しずつ理解できるようになっていったのです。

特に、認知行動療法に強く惹かれました。自分の思考パターンを変えることで、感情や行動を変えられるという考え方は、まさに私が求めていたものでした。

また、トラウマケアについても深く学びました。自分の過去のトラウマと向き合い、それを乗り越える方法を学んでいく中で、少しずつ自分自身を受け入れられるようになっていきました。

この学びの過程は決して楽なものではありませんでした。過去の自分と向き合うのは、時に苦しく、痛みを伴うものでした。でも、その痛みを乗り越えるたびに、私は少しずつ強くなっていきました。

そして、私の中に新しい目標が生まれました。自分と同じように苦しんでいる人の力になりたい。自分が経験した苦しみを、誰かの希望に変えたい。そんな思いが、私の心の中で大きくなっていったのです。

この「運命を拓く」との出会いと心理学の学びは、私の人生の大きな転換点となりました。それは単なる知識の獲得ではなく、自分自身を根本から変える、魂の変容とも言えるものでした。

この経験が、後に私がカウンセラーとしての道を歩む大きなきっかけとなったのです。

8.カウンセラーへの道

過去の経験を活かす決意

最愛の人との出会いを経て、私の人生は大きく変わりました。幸せを手に入れた今、私の中に新しい使命感が芽生えてきました

ふと、自分の人生を振り返ったとき、こんな思いが湧き上がってきたのです。

「あの当時の私に言いに行ってあげたい。でも、あの波瀾万丈のときがあったから今があると思える」

自殺未遂を繰り返したり、薬物やアルコールに依存せざるを得なかった苦しい時期。そんなときに、考え方、心の保ち方、捉え方を変える方法を教えてくれる人がいてくれたら…。そう考えると、胸が締め付けられる思いでした。

そして、決意が固まりました。「過去の私のような、悩んでいる女性に寄り添って、一人でも多くの女性をハッピーにしたい」

私の経験は、決して誇れるものではありません。でも、だからこそ、同じように苦しんでいる人の気持ちがわかる。そう思ったのです。

多くの女性を支援する使命

この決意を胸に、私は2008年にカウンセラーとしてデビューしました。今では、女性の様々な恋愛や人間関係、親子関係、夫婦関係のカウンセリングをさせていただいておりますが、最初は、ダメンズに引っかからないような恋愛テクニックを教えたり、モテない男性たちのための疑似デートセミナーなどを開催していました。

しかし、元々経験豊富だった私に相談に来る女性が多く、その中でもっとも多かったのが不倫恋愛の相談でした。また、幼い頃に母の不倫の相談を受けていた経験も思い出し、2010年より不倫専門カウンセラーとして活動を始めました。

私が応援したい、お手伝いしたいのは、「自分自身を変えたい、もっと幸せになりたい、彼とうまく行きたい、恋愛成就したい女性」です。不倫恋愛の場合でも、略奪をしようと考えているような人は、過去にもこの先も一切対象にしていません。

活動を通じて、私は「自分自身が変われば、相手も変わり、見える世界も変わってくる」ということを、実体験を基に説いています。これは、私自身が身をもって学んだ真理です。

現在の私の活動は多岐にわたります:

また、無料のウェブセミナーやYouTube等を通じて、多くの女性に希望を与える活動も行っています。

この道を歩み始めてから、ご報告ベースで数百組以上の方を訳あり恋愛から結婚へと導くことができました。この数字以上に、多くの女性が自分自身を変え、幸せをつかんでいく姿を見られることが、私にとっての大きな喜びです。

カウンセラーとしての活動は、私に新たな人生の意義を与えてくれました。過去の苦しみが、今では多くの人を助ける力になっている。この事実に、私は深い感謝の念を抱いています。

「こんな私でも幸せになれた。だから、あなたにも必ず幸せが訪れる!」

この信念を胸に、これからも多くの女性のサポートを続けていきたいと思っています。

9.両親との和解

許せなかった気持ちの変化

カウンセラーとしての活動を始め、多くの人の悩みに寄り添う中で、私自身の中にもまだ解決できていない問題があることに気づきました。それは、両親に対する複雑な感情でした

長年、私は両親に対して許せない気持ち、捨てられたという思いを抱えていました。特に、母の不倫や家出、父の暴力的な行動は、幼い私の心に深い傷を残していました。

しかし、カウンセリングを通じて他人の家族関係を見ていくうちに、少しずつ自分の両親との関係を客観的に見られるようになっていきました。

そして、ある日「母親の立場になって真剣に考えてみよう」と思い立ちました。母の人生を想像してみると、若くして結婚し、経済的にも精神的にも不安定な状況の中で私を育てていた姿が浮かび上がってきました。

同様に、父の背景にも目を向けました。厳しい家庭環境で育ち、若くして家族を持った父の苦労や不安も、少しずつ理解できるようになりました。

この過程で、私の中の「許せない」という気持ちが、少しずつ「理解したい」という気持ちに変わっていきました

愛されていたことの気づき

気持ちの変化とともに、私は勇気を出して両親に向き合うことにしました。まず母親に対して、長年抱えていた思いを正直に伝えました。

「私は、お母さんに捨てられたという思いと、憎しみしかなかった。ずっとずっと憎んでました、ごめんなさい!」

この言葉を伝えたとき、母は驚いた様子で「そんなことは全くなかった、いつでもナナちゃんのことを思っていた」と言ってくれました。

同じように、父親にも向き合いました。暴力的だった父に対しても、自分の気持ちを正直に伝え、謝罪しました。

すると父も、「気持ちを伝えてくれて嬉しいよ。ナナちゃんには幸せになってほしいといつも思っている」と言ってくれたのです。

この瞬間、私たちはお互いに号泣しました。長年の誤解や傷つきが、一気に溶けていくような感覚でした。

この経験を通じて、私は大きな気づきを得ました。

  1. 自分の思い込みが自分の世界を作り上げていること
  2. 愛されていないと思っていたのは、自分の幻想だったこと
  3. 実は深く愛されていたこと
  4. そもそも愛されていない人なんていないこと

この気づきは、私の人生観を大きく変えました。見える世界が大きく大きく変わったのです。

両親との和解は、私のカウンセリングにも大きな影響を与えました。家族関係の修復の可能性や、自分の思い込みを変える重要性を、身をもって体験したからこそ、クライアントにも深い共感と希望を持って接することができるようになりました。

この経験は、「自分自身が変われば、相手も変わり、見える世界も変わってくる」という私の信念をより強固なものにしました。そして、この信念は今も私のカウンセリングの核心となっています。

10.おわりに:あなたにも必ず幸せが訪れる

現在の幸せな生活

私の人生は、まさに波瀾万丈でした。親のDV、家出、16歳での出産、薬物依存症、アルコール依存症、自殺未遂、恋人からのDV…。思い返せば、こんな経験をした私が今、幸せに生きていることが不思議なぐらいです。

でも、今の私は本当に幸せです。最愛の人と出会い結婚し、6人の子供に恵まれました。カウンセラーとして多くの女性の力になれていることに、日々やりがいを感じています。

あの当時の私には、今の人生は想像もつかないものでした。でも、それでも私は変われたんです。

私は今、株式会社ココニアの代表として、心理カウンセラーをしています。「ココニア」という社名は”心のパイオニア”からの造語です。一人でも多くの女性の幸せ、ハッピーのための船頭となるべく、日々精進しています。

あなたへメッセージ

私がこの物語を紹介したのは、あなたにも希望を持ってほしいからです。今、苦しんでいる人、悩んでいる人、自分の人生に絶望している人…。あなたにも必ず、幸せが訪れます

私の経験から言えることは:

  1. 人は必ず変われる:どんな状況でも、変わるチャンスは必ずあります。
  2. 自分の思考が現実を作る:ネガティブな思考を変えることで、人生は大きく変わります。
  3. 愛は存在する:誰もが愛される資格があり、実際に愛されています。それに気づくかどうかが重要です。
  4. 過去は変えられないが、未来は変えられる:過去の経験を活かして、より良い未来を作ることができます。
  5. 自分を許すことの大切さ:自分を許し、受け入れることから、本当の変化は始まります。

私は、あなたの中にある強さを信じています。今は見えなくても、あなたの中には無限の可能性が眠っています。

そして、幸せへの道は、思いもよらないところにあるかもしれません。私の場合は一冊の本との出会いでした。あなたの場合は何になるでしょうか?それを見つける旅を、今から始めてみませんか?

最後に、私からのメッセージです:

「こんな私でも幸せになれました。あなたに幸せが訪れないはずがありません!!」

あなたの人生が、素晴らしいものになることを心から願っています。そして、いつかあなたも誰かを助ける立場になれると信じています。

あなたの幸せな未来に向かって、一緒に歩んでいきましょう。